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名篇阅读:《故乡》(日汉对照)

  厳しい寒さの中を、二千里の果てから、別れて二十年にもなる故郷へ、わたしは帰った。

  もう真冬の候であった。そのうえ故郷へ近づくにつれて、空模様は怪しくなり、冷たい風がヒューヒュー音をたてて、船の中まで吹き込んできた。苫のすきまから外をうかがうと、鉛色の空の下、わびしい村々が、いささかの活気もなく、あちこちに横たわっていた。覚えず寂寥の感が胸にこみあげた。

  ああ、これが二十年来、片時も忘れることのなかった故郷であろうか。

  わたしの覚えている故郷は、まるでこんなふうではなかった。わたしの故郷は、もっとずっとよかった。その美しさを思い浮かべ、その長所を言葉に表そうとすると、しかし、その影はかき消され、言葉は失われてしまう。やはりこんなふうだったかもしれないという気がしてくる。そこでわたしは、こう自分に言い聞かせた。もともと故郷はこんなふうなのだ──進歩もないかわりに、わたしが感じるような寂寥もありはしない。そう感じるのは、自分の心境が変わっただけだ。なぜなら、今度の帰郷は決して楽しいものではないのだから。

  今度は、故郷に別れを告げに来たのである。わたしたちが長いこと一族で住んでいた古い家は、今はもう他人の持ち物になってしまった。明け渡しの期限は今年いっぱいである。どうしても旧暦の正月の前に、住み慣れた古い家に別れ、なじみ深い故郷をあとにして、わたしが今暮らしを立てている異郷の地へ引っ越さねばならない。

  明くる日の朝早く、わたしはわが家の表門に立った。屋根には一面に枯れ草のやれ茎が、折からの風になびいて、この古い家が持ち主を変えるほかなかった理由を説き明かし顔である。一緒に住んでいた親戚たちは、もう引っ越してしまったあとらしく、ひっそり閑としている。自宅の庭先まで来てみると、母はもう迎えに出ていた。あとから八歳になる甥の宏児もとび出した。

  母は機嫌よかったが、さすがにやるせない表情は隠しきれなかった。わたしを座らせ、休ませ、茶をついでくれなどして、すぐ引っ越しの話はもち出さない。宏児は、わたしとは初対面なので、離れた所に立って、じっとわたしの方を見つめていた。

  だが、とうとう引っ越しの話になった。わたしは、あちらの家はもう借りてあること、家具も少しは買ったこと、あとは家にある道具類をみんな売り払って、その金で買いたせばよいこと、などを話した。母もそれに賛成した。そして、荷造りもほぼ終わったこと、かさばる道具類は半分ほど処分したが、よい値にならなかったことなどを話した。

  「一、二日休んだら、親戚回りをしてね、そのうえでたつとしよう。」と母は言った。 「ええ。」

  「それから、閏土ね。あれが、いつも家へ来るたびに、おまえのうわさをしては、しきりに会いたがっていましたよ。おまえが着くおよその日取りは知らせておいたから、いまに来るかもしれない。」

  この時突然、わたしの脳裏に不思議な画面が繰り広げられた──紺碧の空に金色の丸い月がかかっている。その下は海辺の砂地で、見渡す限り緑の西瓜が植わっている。そのまん中に十一、二歳の少年が、銀の首輪をつるし、鉄の刺叉を手にして立っている。そして一匹の「チャー」を目がけて、ヤッとばかり突く。すると「チャー」は、ひらりと身をかわして、彼のまたをくぐって逃げてしまう。

  この少年が閏土である。彼と知り合った時、わたしもまだ十歳そこそこだった。もう三十年近い昔のことである。そのころは、父もまだ生きていたし、家の暮らし向きも楽で、わたしは坊ちゃんでいられた。ちょうどその年は、わが家が大祭の当番にあたっていた。この祭りの当番というのが、三十何年めにただ一回順番が回ってくるとかで、ごく大切な行事だった。正月に、祖先の像を祭るのである。さまざまの供物をささげ、祭器もよく吟味するし、参詣の人も多かったので、祭器をとられぬように番をする必要があった。わたしの家には「忙月」が一人いるだけである。(わたしの郷里では、雇い人は三種類ある。年間通して決まった家で働くのが「長年」、日決めで働くのが「短工」、自分でも耕作するかたわら、年末や節季や年貢集めの時などに、決まった家へ来て働くのが「忙月」と呼ばれた。)一人では手が足りぬので、彼は自分の息子の閏土に祭器の番をさせたいが、とわたしの父に申し出た。

  父はそれを許した。わたしもうれしかった。というのは、かねて閏土という名は耳にしていたし、同じ年ごろなこと、また閏月の生まれで、五行の土が欠けているので父親が閏土と名づけたことも承知していたから。彼はわなをかけて小鳥を捕るのがうまかった。

  それからというもの、来る日も来る日も新年が待ち遠しかった。新年になれば閏土がやって来る。待ちに待った年末になり、ある日のこと、母がわたしに、閏土が来たと知らせてくれた。とんでいってみると、彼は台所にいた。つやのいい丸顔で、小さな毛織りの帽子をかぶり、キラキラ光る銀の首輪をはめていた。それは父親の溺愛ぶりを示すもので、どうか息子が死なないようにと神仏に願をかけて、その首輪でつなぎ止めてあるのだ。彼は人見知りだったが、わたしにだけは平気で、そばにだれもいないとよく口をきいた。半日もせずにわたしたちは仲よくなった。

  その時何をしゃべったかは、覚えていない。ただ閏土が、城内へ来ていろいろ珍しいものを見たといって、はしゃいでいたことだけは記憶に残っている。

  明くる日、鳥を捕ってくれと頼むと、彼は、

  「だめだよ。大雪が降ってからでなきゃ。おいらとこ、砂地に雪が降るだろ。そうしたら雪をかいて、少し空き地をこしらえるんだ。それから、大きなかごを持ってきて、短いつっかえ棒をかって、くずもみをまくんだ。そうすると、小鳥が来て食うから、その時遠くの方から、棒に結わえてある縄を引っぱるんだ。そうすると、みんなかごから逃げられないんだ。なんだっているぜ。稲鶏だの、角鶏だの、鳩だの、藍背だの……。」

  それからは雪の降るのが待ち遠しくなった。

  閏土はまた言うのだ。

  「今は寒いけどな、夏になったら、おいらとこへ来るといいや。おいら、昼間は海へ貝殻拾いに行くんだ。赤いのも、青いのも、なんでもあるよ。「鬼おどし」もあるし、「観音様の手」もあるよ。晩には父ちゃんと西瓜の番に行くのさ。おまえも来いよ。」

  「どろぼうの番?」

  「そうじゃない。通りがかりの人が、のどが渇いて西瓜を取って食ったって、そんなの、おいらとこじゃどろぼうなんて思やしない。番するのは、あなぐまや、はりねずみや、チャーさ。月のある晩に、いいかい、ガリガリって音がしたら、チャーが西瓜をかじってるんだ。そうしたら手に刺叉を持って、忍び寄って……。」

  その時わたしはその「チャー」というのがどんなものか、見当もつかなかった──今でも見当はつかない──が、ただなんとなく、小犬のような、そして獰猛な動物だという感じがした。

  「かみつかない?」

  「刺叉があるじゃないか。忍び寄って、チャーを見つけたら突くのさ。あんちくしょう、りこうだから、こっちへ走ってくるよ。そうしてまたをくぐって逃げてしまうよ。なにしろ毛が油みたいにすべっこくて……。」

  こんなにたくさん珍しいことがあろうなど、それまでわたしは思ってもみなかった。海には、そのような五色の貝殻があるものなのか。西瓜には、こんな危険な経歴があるものなのか。わたしは西瓜といえば、果物屋に売っているものとばかり思っていた。

  「おいらとこの砂地では、高潮の時分になると「跳ね魚」がいっぱい跳ねるよ。みんなかえるみたいな足が二本あって……。」

  ああ、閏土の心は神秘の宝庫で、わたしの遊び仲間とは大違いだ。こんなことはわたしの友達は何も知ってはいない。閏土が海辺にいる時、彼らはわたしと同様、高い塀に囲まれた中庭から四角な空を眺めているだけなのだ。

  惜しくも正月は過ぎて、閏土は家へ帰らねばならなかった。別れがつらくて、わたしは声をあげて泣いた。閏土も台所の隅に隠れて、嫌がって泣いていたが、とうとう父親に連れてゆかれた。そのあと、彼は父親にことづけて、貝殻を一包みと、美しい鳥の羽を何本か届けてくれた。わたしも一、二度何か贈り物をしたが、それきり顔を合わす機会はなかった。

  今、母の口から彼の名が出たので、この子供のころの思い出が、電光のように一挙によみがえり、わたしはやっと美しい故郷を見た思いがした。わたしはすぐこう答えた。

  「そりゃいいな。で──今、どんな? ……。」

  「どんなって……やっぱり、楽ではないようだが……。」そう答えて母は、戸外へ目をやった。

  「あの連中、また来ている。道具を買うという口実で、その辺にあるものを勝手に持っていくのさ。ちょっと見てくるからね。」

  母は立ち上がって出ていった。外では、数人の女の声がしていた。わたしは宏児をこちらへ呼んで、話し相手になってやった。字は書ける? よそへ行くの、うれしい? などなど。

  「汽車に乗ってゆくの?」

  「汽車に乗ってゆくんだよ。」

  「お船は?」

  「初めに、お船に乗って……。」

  「まあまあ、こんなになって、ひげをこんなに生やして。」不意にかん高い声が響いた。

  びっくりして頭を上げてみると、わたしの前には、ほお骨の出た、唇の薄い、五十がらみの女が立っていた。両手を腰にあてがい、スカートをはかないズボン姿で足を開いて立ったところは、まるで製図用の脚の細いコンパスそっくりだった。

  わたしはドキンとした。

  「忘れたかね? よくだっこしてあげたものだが。」

  ますますドキンとした。幸い、母が現れて口添えしてくれた。

  「長いこと家にいなかったから、見忘れてしまってね。おまえ、覚えているだろ。」

  とわたしに向かって、「ほら、筋向かいの楊おばさん……豆腐屋の。」

  そうそう、思い出した。そういえば子供のころ、筋向かいの豆腐屋に、楊おばさんという人が一日じゅう座っていて、「豆腐屋小町」と呼ばれていたっけ。しかし、その人なら白粉を塗っていたし、ほお骨もこんなに出ていないし、唇もこんなに薄くはなかったはずだ。それに一日じゅう座っていたのだから、こんなコンパスのような姿勢は、見ようにも見られなかった。そのころうわさでは、彼女のおかげで豆腐屋は商売繁盛だとされた。たぶん年齢のせいだろうか、わたしはそういうことにさっぱり関心がなかった。そのため見忘れてしまったのである。ところがコンパスのほうでは、それがいかにも不服らしく、さげすむような表情を見せた。まるでフランス人のくせにナポレオンを知らず、アメリカ人のくせにワシントンを知らぬのをあざけるといった調子で、冷笑を浮かべながら、

  「忘れたのかい? なにしろ身分のあるおかたは目が上を向いているからね……。」

  「そんなわけじゃないよ……ぼくは……。」わたしはどぎまぎして、立ち上がった。

  「それならね、お聞きなさいよ、迅ちゃん。あんた、金持ちになったんでしょ。持ち運びだって、重くて不便ですよ。こんなガラクタ道具、じゃまだから、あたしにくれてしまいなさいよ。あたしたち貧乏人には、けっこう役に立ちますからね。」

  「ぼくは金持ちじゃないよ。これを売って、その金で……。」

  「おやおや、まあまあ、知事様になっても金持ちじゃない? 現にお妾が三人もいて、お出ましは八人かきのかごで、それでも金持ちじゃない? フン、だまそうたって、そうはいきませんよ。」

  返事のしようがないので、わたしは口を閉じたまま立っていた。

  「ああ、ああ、金がたまれば財布のひもを締める。財布のひもを締めるからまたたまる……。」コンパスは、ふくれっつらで背を向けると、ぶつぶつ言いながら、ゆっくりした足どりで出ていった。行きがけの駄賃に母の手袋をズボンの下へねじ込んで。

  そのあと、近所にいる親戚が何人も訪ねてきた。その応対に追われながら、暇をみて荷ごしらえをした。そんなことで四、五日つぶれた。

  ある寒い日の午後、わたしは食後の茶でくつろいでいた。表に人の気配がしたので、振り向いてみた。思わずアッと声が出かかった。急いで立ち上がって迎えた。

  来た客は閏土である。ひと目で閏土とわかったものの、その閏土は、わたしの記憶にある閏土とは似もつかなかった。背丈は倍ほどになり、昔のつやのいい丸顔は、今では黄ばんだ色に変わり、しかも深いしわがたたまれていた。目も、彼の父親がそうであったように、周りが赤くはれている。わたしは知っている。海辺で耕作する者は、一日じゅう潮風に吹かれるせいで、よくこうなる。頭には古ぼけた毛織りの帽子、身には薄手の綿入れ一枚、全身ぶるぶる震えている。紙包みと長いきせるを手に提げている。その手も、わたしの記憶にある血色のいい、まるまるした手ではなく、太い、節くれだった、しかもひび割れた、松の幹のような手である。

  わたしは感激で胸がいっぱいになり、しかしどう口をきいたものやら思案がつかぬままに、ひと言、

  「ああ、閏ちゃん──よく来たね……。」

  続いて言いたいことが、あとからあとから、数珠つなぎになって出かかった。角鶏、跳ね魚、貝殻、チャー……だがそれらは、何かでせき止められたように、頭の中を駆けめぐるだけで、口からは出なかった。

  彼は突っ立ったままだった。喜びと寂しさの色が顔に現れた。唇が動いたが、声にはならなかった。最後に、うやうやしい態度に変わって、はっきりこう言った。

  「だんな様! ……。」

  わたしは身震いしたらしかった。悲しむべき厚い壁が、二人の間を隔ててしまったのを感じた。わたしは口がきけなかった。

  彼は後ろを向いて、「水生、だんな様におじぎしな。」と言って、彼の背に隠れていた子供を前へ出した。これぞまさしく三十年前の閏土であった。いくらかやせて、顔色が悪く、銀の首輪もしていない違いはあるけれども。「これが五番めの子でございます。世間へ出さぬものですから、おどおどしておりまして……。」

  母と宏児が二階から降りてきた。話し声を聞きつけたのだろう。

  「ご隠居様、お手紙は早くにいただきました。全く、うれしくてたまりませんでした、だんな様がお帰りになると聞きまして……。」と閏土は言った。

  「まあ、なんだってそんな、他人行儀にするんだね。おまえたち、昔は兄弟の仲じゃないか。昔のように、迅ちゃん、でいいんだよ。」と母は、うれしそうに言った。

  「めっそうな、ご隠居様、なんとも……とんでもないことでございます。あのころは子供で、なんのわきまえもなく……。」そしてまたも水生を前に出しておじぎさせようとしたが、子供ははにかんで、父親の背にしがみついたままだった。

  「これが水生? 五番めだね。知らない人ばかりだから、はにかむのも無理ない。宏児や、あちらで一緒に遊んでおやり。」と母は言った。

  言われて宏児は、水生を誘い、水生もうれしそうに、そろって出ていった。母は閏土に席を勧めた。彼はしばらくためらったあと、ようやく腰を下ろした。長ぎせるをテーブルに立てかけて、紙包みを差し出した。

  「冬場は、ろくなものがございません。少しばかり、青豆の干したのですが、自分とこのですから、どうかだんな様に……。」

  わたしは、暮らし向きについて尋ねた。彼は首を振るばかりだった。

  「とてもとても。今では六番めの子も役に立ちますが、それでも追っつけません……世間は物騒だし……どっちを向いても金は取られほうだい、きまりもなにも……作柄もよくございません。作った物を売りに行けば、何度も税金を取られて、元は切れるし、そうかといって売らなければ、腐らせるばかりで……。」

  首を振りどおしである。顔にはたくさんのしわがたたまれているが、まるで石像のように、そのしわは少しも動かなかった。苦しみを感じはしても、それを言い表すすべがないように、しばらく沈黙し、それからきせるを取り上げて、黙々とたばこをふかした。

  母が都合をきくと、家に用が多いから、明日は帰らねばならぬという。それに昼飯もまだと言うので、自分で台所へ行って、飯をいためて食べるように勧めた。

  彼が出ていったあと、母とわたしとは彼の境遇を思ってため息をついた。子だくさん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主、みんな寄ってたかって彼をいじめて、デクノボーみたいな人間にしてしまったのだ。母は、持っていかぬ品物はみんなくれてやろう、好きなように選ばせよう、とわたしに言った。

  午後、彼は品物を選び出した。長テーブル二個、いす四脚、香炉と燭台一組み、大秤一本。そのほかわら灰もみんな欲しいと言った。(わたしたちのところでは、炊事の時わらを燃す。その灰は砂地の肥料になる。)わたしたちが旅立つ時来て船で運ぶ、と言った。

  夜はまた世間話をした。とりとめのない話ばかりだった。明くる日の朝、彼は水生を連れて帰っていった。

  それからまた九日して、わたしたちの旅立ちの日になった。閏土は朝から来ていた。水生は連れずに、五歳になる女の子に船の番をさせていた。それぞれに一日じゅう忙しくて、もう話をする暇はなかった。客も多かった。見送りに来る者、品物を取りに来る者、見送りがてら品物を取りに来る者。夕方になって、わたしたちが船に乗り込むころには、この古い家にあった大小さまざまのガラクタ類は、すっかり片づいていた。

  船はひたすら前進した。両岸の緑の山々は、たそがれの中で薄墨色に変わり、次次と船尾に消えた。

  わたしと一緒に窓辺にもたれて、暮れてゆく外の景色を眺めていた宏児が、ふと問いかけた。

  「おじさん、ぼくたち、いつ帰ってくるの?」

  「帰ってくる? どうしてまた、行きもしないうちに、帰るなんて考えたんだい?」

  「だって、水生がぼくに、家へ遊びに来いって。」

  大きな黒い目をみはって、彼はじっと考えこんでいた。

  わたしも、わたしの母も、はっと胸をつかれた。そして話がまた閏土のことに戻った。母はこう語った。例の豆腐屋小町の楊おばさんは、わたしの家で片づけが始まってから、毎日必ずやってきたが、おととい、灰の山からわんや皿を十個あまり掘り出した。あれこれ議論の末、それは閏土が埋めておいたにちがいない、灰を運ぶ時、一緒に持ち帰れるから、という結論になった。楊おばさんは、この発見を手柄顔に、「犬じらし」(これはわたしたちのところで鶏を飼うのに使う。木の板にさくを取り付けた道具で、中に食べ物を入れておくと、鶏は首を伸ばしてついばむことができるが、犬にはできないので、見てじれるだけである。)をつかんで飛ぶように走り去った。てん足用の底の高い靴で、よくもと思うほど速かったそうだ。

  古い家はますます遠くなり、故郷の山や水もますます遠くなる。だが名残惜しい気はしない。自分の周りに目に見えぬ高い壁があって、その中に自分だけ取り残されたように、気がめいるだけである。西瓜畑の銀の首輪の小英雄の面影は、もとは鮮明このうえなかったのが、今では急にぼんやりしてしまった。これもたまらなく悲しい。

  母と宏児とは寝入った。

  わたしも横になって、船の底に水のぶつかる音を聞きながら、今、自分は、自分の道を歩いているとわかった。思えばわたしと閏土との距離は全く遠くなったが、若い世代は今でも心が通い合い、現に宏児は水生のことを慕っている。せめて彼らだけは、わたしと違って、互いに隔絶することのないように……とはいっても、彼らが一つ心でいたいがために、わたしのように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活をともにすることは願わない。また閏土のように、打ちひしがれて心がまひする生活をともにすることも願わない。また他の人のように、やけを起こしてのほうずに走る生活をともにすることも願わない。希望をいえば、彼らは新しい生活をもたなくてはならない。わたしたちの経験しなかった新しい生活を。

  希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。たしか閏土が香炉と燭台を所望した時、わたしはあい変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは手に入りにくいだけだ。

  まどろみかけたわたしの目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

  我冒了严寒,回到相隔二千余里,别了二十余年的故乡去。

  时候既然是深冬;渐近故乡时,天气又阴晦了,冷风吹进船舱中,呜呜的响,从蓬隙向外一望,苍黄的天底下,远近横着几个萧索的荒村,没有一些活气。我的心禁不住悲凉起来了。阿!这不是我二十年来时时记得的故乡?

  我所记得的故乡全不如此。我的故乡好得多了。但要我记起他的美丽,说出他的佳处来,却又没有影像,没有言辞了。仿佛也就如此。于是我自己解释说:故乡本也如此,——虽然没有进步,也未必有如我所感的悲凉,这只是我自己心情的改变罢了,因为我这次回乡,本没有什么好心绪。

  我这次是专为了别他而来的。我们多年聚族而居的老屋,已经公同卖给别姓了,交屋的期限,只在本年,所以必须赶在正月初一以前,永别了熟识的老屋,而且远离了熟识的故乡,搬家到我在谋食的异地去。

  第二日清早晨我到了我家的门口了。瓦楞上许多枯草的断茎当风抖着,正在说明这老屋难免易主的原因。几房的本家大约已经搬走了,所以很寂静。我到了自家的房外,我的母亲早已迎着出来了,接着便飞出了八岁的侄儿宏儿。

  我的母亲很高兴,但也藏着许多凄凉的神情,教我坐下,歇息,喝茶,且不谈搬家的事。宏儿没有见过我,远远的对面站着只是看。

  但我们终于谈到搬家的事。我说外间的寓所已经租定了,又买了几件家具,此外须将家里所有的木器卖去,再去增添。母亲也说好,而且行李也略已齐集,木器不便搬运的,也小半卖去了,只是收不起钱来。

  “你休息一两天,去拜望亲戚本家一回,我们便可以走了。”母亲说。

  “是的。”

  “还有闰土,他每到我家来时,总问起你,很想见你一回面。我已经将你到家的大约日期通知他,他也许就要来了。”

  这时候,我的脑里忽然闪出一幅神异的图画来:深蓝的天空中挂着一轮金黄的圆月,下面是海边的沙地,都种着一望无际的碧绿的西瓜,其间有一个十一二岁的少年,项带银圈,手捏一柄钢叉,向一匹猹尽力的刺去,那猹却将身一扭,反从他的胯下逃走了。

  这少年便是闰土。我认识他时,也不过十多岁,离现在将有三十年了;那时我的父亲还在世,家景也好,我正是一个少爷。那一年,我家是一件大祭祀的值年。这祭祀,说是三十多年才能轮到一回,所以很郑重;正月里供祖像,供品很多,祭器很讲究,拜的人也很多,祭器也很要防偷去。我家只有一个忙月(我们这里给人做工的分三种:整年给一定人家做工的叫长工;按日给人做工的叫短工;自己也种地,只在过年过节以及收租时候来给一定人家做工的称忙月),忙不过来,他便对父亲说,可以叫他的儿子闰土来管祭器的。

  我的父亲允许了;我也很高兴,因为我早听到闰土这名字,而且知道他和我仿佛年纪,闰月生的,五行缺土,所以他的父亲叫他闰土。他是能装弶捉小鸟雀的。

  我于是日日盼望新年,新年到,闰土也就到了。好容易到了年末,有一日,母亲告诉我,闰土来了,我便飞跑的去看。他正在厨房里,紫色的圆脸,头戴一顶小毡帽,颈上套一个明晃晃的银项圈,这可见他的父亲十分爱他,怕他死去,所以在神佛面前许下愿心,用圈子将他套住了。他见人很怕羞,只是不怕我,没有旁人的时候,便和我说话,于是不到半日,我们便熟识了。

  我们那时候不知道谈些什么,只记得闰土很高兴,说是上城之后,见了许多没有见过的东西。

  第二日,我便要他捕鸟。他说: “这不能。须大雪下了才好。我们沙地上,下了雪,我扫出一块空地来,用短棒支起一个大竹匾,撒下秕谷,看鸟雀来吃时,我远远地将缚在棒上的绳子只一拉,那鸟雀就罩在竹匾下了。什么都有:稻鸡,角鸡,鹁鸪,蓝背……”

  我于是又很盼望下雪。

  闰土又对我说: “现在太冷,你夏天到我们这里来。我们日里到海边捡贝壳去,红的绿的都有,鬼见怕也有,观音手也有。晚上我和爹管西瓜去,你也去。”

  “管贼么?”

  “不是。走路的人口渴了摘一个瓜吃,我们这里是不算偷的。要管的是獾猪,刺猬,猹。月亮底下,你听,啦啦的响了,猹在咬瓜了。你便捏了胡叉,轻轻地走去……”

  我那时并不知道这所谓猹的是怎么一件东西——便是现在也没有知道——只是无端的觉得状如小狗而很凶猛。

  “他不咬人么?”

  “有胡叉呢。走到了,看见猹了,你便刺。这畜生很伶俐,倒向你奔来,反从胯下窜了。他的皮毛是油一般的滑……”

  我素不知道天下有这许多新鲜事:海边有如许五色的贝壳;西瓜有这样危险的经历,我先前单知道他在水果电里出卖罢了。

  “我们沙地里,潮汛要来的时候,就有许多跳鱼儿只是跳,都有青蛙似的两个脚……”

  阿!闰土的心里有无穷无尽的希奇的事,都是我往常的朋友所不知道的。他们不知道一些事,闰土在海边时,他们都和我一样只看见院子里高墙上的四角的天空。

  可惜正月过去了,闰土须回家里去,我急得大哭,他也躲到厨房里,哭着不肯出门,但终于被他父亲带走了。他后来还托他的父亲带给我一包贝壳和几支很好看的鸟毛,我也曾送他一两次东西,但从此没有再见面。

  现在我的母亲提起了他,我这儿时的记忆,忽而全都闪电似的苏生过来,似乎看到了我的美丽的故乡了。我应声说: “这好极!他,——怎样?……”

  “他?……他景况也很不如意……”母亲说着,便向房外看,“这些人又来了。说是买木器,顺手也就随便拿走的,我得去看看。”

  母亲站起身,出去了。门外有几个女人的声音。我便招宏儿走近面前,和他闲话:问他可会写字,可愿意出门。

  “我们坐火车去么?”

  “我们坐火车去。”

  “船呢?”

  “先坐船,……”

  “哈!这模样了!胡子这么长了!”一种尖利的怪声突然大叫起来。

  我吃了一吓,赶忙抬起头,却见一个凸颧骨,薄嘴唇,五十岁上下的女人站在我面前,两手搭在髀间,没有系裙,张着两脚,正像一个画图仪器里细脚伶仃的圆规。

  我愕然了。

  “不认识了么?我还抱过你咧!”

  我愈加愕然了。幸而我的母亲也就进来,从旁说: “他多年出门,统忘却了。你该记得罢,”便向着我说,“这是斜对门的杨二嫂,……开豆腐店的。”

  哦,我记得了。我孩子时候,在斜对门的豆腐店里确乎终日坐着一个杨二嫂,人都叫伊“豆腐西施”。但是擦着白粉,颧骨没有这么高,嘴唇也没有这么薄,而且终日坐着,我也从没有见过这圆规式的姿势。那时人说:因为伊,这豆腐店的买卖非常好。但这大约因为年龄的关系,我却并未蒙着一毫感化,所以竟完全忘却了。然而圆规很不平,显出鄙夷的神色,仿佛嗤笑法国人不知道拿破仑,美国人不知道华盛顿似的,冷笑说: “忘了?这真是贵人眼高……”

  “那有这事……我……”我惶恐着,站起来说。

  “那么,我对你说。迅哥儿,你阔了,搬动又笨重,你还要什么这些破烂木器,让我拿去罢。我们小户人家,用得着。”

  “我并没有阔哩。我须卖了这些,再去……”

  “阿呀呀,你放了道台了,还说不阔?你现在有三房姨太太;出门便是八抬的大轿,还说不阔?吓,什么都瞒不过我。”

  我知道无话可说了,便闭了口,默默的站着。

  “阿呀阿呀,真是愈有钱,便愈是一毫不肯放松,愈是一毫不肯放松,便愈有钱……”圆规一面愤愤的回转身,一面絮絮的说,慢慢向外走,顺便将我母亲的一副手套塞在裤腰里,出去了。

  此后又有近处的本家和亲戚来访问我。我一面应酬,偷空便收拾些行李,这样的过了三四天。

  一日是天气很冷的午后,我吃过午饭,坐着喝茶,觉得外面有人进来了,便回头去看。我看时,不由的非常出惊,慌忙站起身,迎着走去。

  这来的便是闰土。虽然我一见便知道是闰土,但又不是我这记忆上的闰土了。他身材增加了一倍;先前的紫色的圆脸,已经变作灰黄,而且加上了很深的皱纹;眼睛也像他父亲一样,周围都肿得通红,这我知道,在海边种地的人,终日吹着海风,大抵是这样的。他头上是一顶破毡帽,身上只一件极薄的棉衣,浑身瑟索着;手里提着一个纸包和一支长烟管,那手也不是我所记得的红活圆实的手,却又粗又笨而且开裂,像是松树皮了。

  我这时很兴奋,但不知道怎么说才好,只是说: “阿!闰土哥,——你来了?……”

  我接着便有许多话,想要连珠一般涌出:角鸡,跳鱼儿,贝壳,猹,……但又总觉得被什么挡着似的,单在脑里面回旋,吐不出口外去。

  他站住了,脸上现出欢喜和凄凉的神情;动着嘴唇,却没有作声。他的态度终于恭敬起来了,分明的叫道: “老爷!……”

  我似乎打了一个寒噤;我就知道,我们之间已经隔了一层可悲的厚障壁了。我也说不出话。

  他回过头去说,“水生,给老爷磕头。”便拖出躲在背后的孩子来,这正是一个廿年前的闰土,只是黄瘦些,颈子上没有银圈罢了。“这是第五个孩子,没有见过世面,躲躲闪闪……”

  母亲和宏儿下楼来了,他们大约也听到了声音。

  “老太太。信是早收到了。我实在喜欢的不得了,知道老爷回来……”闰土说。

  “阿,你怎的这样客气起来。你们先前不是哥弟称呼么?还是照旧:迅哥儿。”母亲高兴的说。

  “阿呀,老太太真是……这成什么规矩。那时是孩子,不懂事……”闰土说着,又叫水生上来打拱,那孩子却害羞,紧紧的只贴在他背后。

  “他就是水生?第五个?都是生人,怕生也难怪的;还是宏儿和他去走走。”母亲说。

  宏儿听得这话,便来招水生,水生却松松爽爽同他一路出去了。母亲叫闰土坐,他迟疑了一回,终于就了坐,将长烟管靠在桌旁,递过纸包来,说:“冬天没有什么东西了。这一点干青豆倒是自家晒在那里的,请老爷……”

  我问问他的景况。他只是摇头。

  “非常难。第六个孩子也会帮忙了,却总是吃不够……又不太平……什么地方都要钱,没有规定……收成又坏。种出东西来,挑去卖,总要捐几回钱,折了本;不去卖,又只能烂掉……”

  他只是摇头;脸上虽然刻着许多皱纹,却全然不动,仿佛石像一般。他大约只是觉得苦,却又形容不出,沉默了片时,便拿起烟管来默默的吸烟了。

  母亲问他,知道他的家里事务忙,明天便得回去;又没有吃过午饭,便叫他自己到厨下炒饭吃去。

  他出去了;母亲和我都叹息他的景况:多子,饥荒,苛税,兵,匪,官,绅,都苦得他像一个木偶人了。母亲对我说,凡是不必搬走的东西,尽可以送他,可以听他自己去拣择。

  下午,他拣好了几件东西:两条长桌,四个椅子,一副香炉和烛台,一杆抬秤。他又要所有的草灰(我们这里煮饭是烧稻草的,那灰,可以做沙地的肥料),待我们启程的时候,他用船来载去。

  夜间,我们又谈些闲天,都是无关紧要的话;第二天早晨,他就领了水生回去了。

  又过了九日,是我们启程的日期。闰土早晨便到了,水生没有同来,却只带着一个五岁的女儿管船只。我们终日很忙碌,再没有谈天的工夫。来客也不少,有送行的,有拿东西的,有送行兼拿东西的。待到傍晚我们上船的时候,这老屋里的所有破旧大小粗细东西,已经一扫而空了。

  我们的船向前走,两岸的青山在黄昏中,都装成了深黛颜色,连着退向船后梢去。

  宏儿和我靠着船窗,同看外面模糊的风景,他忽然问道: “大伯!我们什么时候回来?”

  “回来?你怎么还没有走就想回来了。”

  “可是,水生约我到他家玩去咧……”他睁着大的黑眼睛,痴痴的想。

  我和母亲也都有些惘然,于是又提起闰土来。母亲说,那豆腐西施的杨二嫂,自从我家收拾行李以来,本是每日必到的,前天伊在灰堆里,掏出十多个碗碟来,议论之后,便定说是闰土埋着的,他可以在运灰的时候,一齐搬回家里去;杨二嫂发见了这件事,自己很以为功,便拿了那狗气杀(这是我们这里养鸡的器具,木盘上面有着栅栏,内盛食料,鸡可以伸进颈子去啄,狗却不能,只能看着气死),飞也似的跑了,亏伊装着这么高低的小脚,竟跑得这样快。

  老屋离我愈远了;故乡的山水也都渐渐远离了我,但我却并不感到怎样的留恋。我只觉得我四面有看不见的高墙,将我隔成孤身,使我非常气闷;那西瓜地上的银项圈的小英雄的影像,我本来十分清楚,现在却忽地模糊了,又使我非常的悲哀。

  母亲和宏儿都睡着了。

  我躺着,听船底潺潺的水声,知道我在走我的路。我想:我竟与闰土隔绝到这地步了,但我们的后辈还是一气,宏儿不是正在想念水生么。我希望他们不再像我,又大家隔膜起来……然而我又不愿意他们因为要一气,都如我的辛苦展转而生活,也不愿意他们都如闰土的辛苦麻木而生活,也不愿意都如别人的辛苦恣睢而生活。他们应该有新的生活,为我们所未经生活过的。

  我想到希望,忽然害怕起来了。闰土要香炉和烛台的时候,我还暗地里笑他,以为他总是崇拜偶像,什么时候都不忘却。现在我所谓希望,不也是我自己手制的偶像么?只是他的愿望切近,我的愿望茫远罢了。

  我在朦胧中,眼前展开一片海边碧绿的沙地来,上面深蓝的天空中挂着一轮金黄的圆月。我想:希望本是无所谓有,无所谓无的。这正如地上的路;其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路。

  一九二一年一月。

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