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学問の海に深まる友情(中日对照)

  今年の1月、私はまた、保定の古蓮池を訪れた。

  前回来たのは去年の秋であり、五十川倫義先生への返信の中で、その感想を述べている。実は、保定古蓮池で私は、「張裕ザオ宮島大八師弟記念碑」を見つけ、同じく深い感銘を受けていた。あれ以来、詳しいことまでは知らなかったこの記念碑は、時折、私の頭の中に浮かんできたものだ。

  後になって、「中国語と近代日本」(安藤彦太郎著)という小冊子を何気なくめくっていると、なんと、宮島大八の名字が目についたのである。それで、やっと謎をとくチャンスに恵まれ、嬉しくてしかたなかった。

  この本いわく、1887年、19才の宮島大八(1867―1943)は父宮島誠一郎の紹介で、直隶省(河北省)の保定府にある蓮池書院に行き、当時、桐城派学者で、著名な古文学者、碑学派書法大師でもある張裕ザオ(1823―1894)の下に弟子入りしたという。

  1895年、宮島大八は帰国し、自宅で私塾を開いて中国語を教えはじめ、後に善隣書院と名付ける。当時、日本には正規的な中国語教育がなかったため、私塾は日本での中国語教育の中心となっていた。その後、宮島大八は東京外国語大学中国語学科の主任に任命される。ところが、張裕ザオが湖北省の出身であったため、宮島大八にも湖北なまりがついてしまい、その影響を受けて、当時東京外国語大学を出た学生はみな多少湖北調になっていた。彼の著作「急就篇」は、戦前日本の中国語教育の経典であり、40年間で170版あまり出版されたのである。

  保定の蓮池書院が清代の名学府であったことは知っていたが、日本の中国語教育とこれほど深い関係があるとは知らなかった。

  1月、再び保定古蓮池を訪れた時は、ちょうど降雪後の初晴れで、園内には観光客もなく、亭や楼閣、小橋や遊歩道、うまく作られた山や枯れきった柳の木は、みな静まり返っていた。去年きた時、咲き散った蓮がそこら一面に広がっていた池は、氷と雪に覆われ、静かに眠っている。小さな石を散りばめた遊歩道に沿って、私は奥ゆかしい西の庭に辿りついた。黒玉石で造られた「張裕ザオ宮島大八師弟記念碑」はここに立っている。正面は日本の著名の書法家で、張氏書法の第三代継承者である上条信山の書で、横の額面「誼深学海」という大きな四文字は、中国の有名な書法家―啓功の題字である。そして、碑の後ろの銘文には、遠い昔の物語がつづられていた。

  蓮池書院は詔書を受けて1733年に設立され、170年あまりの歳月を経て、1908年に閉院する。1883年から1889年まで、張裕ザオは李鴻章の招へいを受け、蓮池書院の院長となる。

  蓮池書院が日本の留学生を受け入れ始めたのは、張裕ザオからであり、宮島大八はその第一人者であった。宮島大八が蓮池書院にきた時、定員はすでに決まっていた。そこで彼は、自分はご高名を慕ってきたので、張の下以外には入れないと表明した。その実直な意志を見た張裕ザオは、特別、李鴻章に事情を説明し、許可を得た後に、この海を渡ってきた学生を受け入れたのである。中国の習慣に基づいて、ひざまずいての師弟の儀式が行なわれた。宮島大八は、中国の学生達とより多く交流すると共に学問に対する自分の心を表すため、辮髪を長し、中国の服装を身にまとった。

  宮島大八は張裕ザオに付いて、まずは蓮池書院に、後は一緒に武昌と襄陽書院にいた。その間、大八は結婚のため一時帰国するが、彼が再び襄陽に戻った時、先生の姿が見えなかった。あちこち訪ね、先生がすでに長安に行っていることを知った彼は、漢水を遡って荊紫関を通り、厳冬に秦嶺を超えて、やっと先生との合流を果した。宮島大八は張家の一員となり、張に随って経学、訓詁、書法と、日夜、筆と墨の世界に浸っていた。1894年1月14日、張裕ザオはこの世を去るが、宮島大八は、先生のお体を清め、喪に服し、最後まで見送ったのである。

  宮島大八は8年間張裕ザオに連れ添い、古文儒学を深く取得したが、最も収穫の大きかったのは、なんと言っても書法であった。宮島大八は張裕ザオ碑学派の真髄を身につけ、日本に戻ってからも引続き勉学に励み、日本書法界の大家となると共に、独自の流派を形成するまでに至る。

  蓮池書院を後にしていると、いつか東京の代々木にある善隣書院に行って見ようという思いが私の脳裏を掠めた。聞くところによると、百年あまりの歴史を持つこの書院は、今も相変わらず中国語の学校として残っていると言う。

  王麗萍 (人民日報)

  谊深学海——张裕钊与宫岛大八

  王丽萍

  今年一月,我又一次来到保定古莲池。

  上次来访是去年秋天。在给五十川伦义先生的回信中,我谈到了保定旅游的感想。其实,在保定古莲花池看到一块“张裕钊宫岛大八师生纪念碑”,同样给我留下深刻的印象。以来,这块我不知细节的纪念碑不时地在脑中闪现。

  后来,无意翻阅一本叫做《中国语与近代日本》(安藤彦太郎著)的小册子时,居然读到了宫岛大八的名字。终于有了揭谜的机会,令我兴奋不已。

  书曰,1887年,19岁的宫岛大八(1867-1943)在其父宫岛诚一郎介绍下,到直隶省(河北省)保定府的莲池书院,师从桐城派学者、著名古文学家、碑学派书法大师张裕钊(1823-1894)。

  1895年宫岛大八回国,在家中开设私塾教中文,后称善邻书院。当时日本没有正规的中文教育,私塾成了日本中文教育的中心。后来,宫岛大八出任东京外国语大学中国语科主任。由于张裕钊是湖北人,结果宫岛大八也有了湖北口音。受其影响,当时东京外语大出来的学生多少都带湖北腔。其著作《急就篇》是战前日本中国语教育的经典,40年中出了170多版。

  只知道保定的莲池书院是清代的名学府,却不知还与日本的中文教育有着如此深的渊源。

  一月再访保定古莲池时,正值雪后初晴,园中没有游人,静静的是那亭台楼阁,小桥曲径,假山荒柳。去年来时的满池残荷,变成平静的冰雪池面。沿着碎石小径,我来到幽静的西小院,黑玉石的“张裕钊宫岛大八师生纪念碑”就立在那里。正面碑文为日本著名书法家、张氏书法的第三代传人上条信山所书。横额“谊深学海”四个大字,是中国著名书法家启功的题字。碑的背面铭文,记述了一个很久以前的故事。

  莲池书院奉诏建于1733年,1908年停办,历经一百七十多年。1883年至1889年,张裕钊受李鸿章之聘,任莲池书院院长。

  莲池书院接收日本留学生始于张裕钊,宫岛大八为第一人。宫岛大八到莲池书院时名额已满,但他表示,自己慕名而来,只愿入张门下,不愿他就。见其心诚,张裕钊特报请李鸿章得准,收了这个渡海而来的学生。按照中国的习惯,行了师生跪拜礼。为便于与中国学生交往和表达自己向学之心,宫岛大八也留起发辫,穿起中国服装。

  宫岛大八随张裕钊先在莲池书院,后又一起到武昌和襄阳书院。其间,大八因婚事回国,当他再返襄阳时,却不见了老师踪影。他四处打听,得知老师已去长安,溯汉水,过荆紫关,严冬时节翻越秦岭,得以和老师会合。宫岛大八成了张家一员,随张学经学、训诂、书法,日夜相随笔墨之间。1894年1月14日,张裕钊辞世,宫岛大八为老师净身,送终服丧。

  宫岛大八跟随张裕钊8年,除了古文儒学受益匪浅,更大的收获在书法上。宫岛大八得张裕钊碑学派书法真传,回到日本后继续潜心研习,成为日本书法界的大家,并且自成流派。

  游完莲池书院,我突然冒出一个念头,什么时候还得去位于东京代代木的善邻书院看看,据说,历经一百多年,它仍旧还是一所中文学校。

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